#2 あなたが信じている多様性とは、何ですか?
訪日観光客増加に合わせ、異文化交流の機会を設けよう。
LGBTQ+の人のために多目的トイレを増やそう。
最近人気な「多様性」という言葉を軸にして、「普通の日本人」とは違う人々を受け入れようとするためのイベントやルールなどが増えている。
この風潮を喜ぶ人もいるかもしれない。
やっと、排他的な日本が変わろうとしている。
日本もGlobalでOpen Mindedな時代に突入したんだ、と。
でも、本当にそうだろうか?
この社会が「多様性」を受け入れる準備はできているのだろうか?
一年前の夏、友達が企画したインドでのプロジェクトに参加後帰国した私は、そのことを疑わざるを得ない出来事に直面した。
その日(それはサザンの曲が聴きたくなる暑い夏の日だった)、私と友人は東京にある某一大娯楽施設の中にあるスパへと足を運んだ。そして受付で支払いを済ませた後、私たちはウキウキとした気持ちで更衣室に入った。
例の出来事が起こってしまったのはその直後、スパの中で着用するための服を受け取った時のことだった。
スタッフに尋ねられた。
「すみません、手についているものは…?」
「...ヘナですが?(何か問題でも...?)」
(ヘナとは、エジプトや中東、インドなどで数千年前から伝統的に行われきたボディペイントの一種。現在は、世界各地でおしゃれや芸術として人気を集めている)インドに滞在中、インド人の友達に描いてもらっていたデザインがまだ消えずに残っていたのだ。しかし、その施設のルールによれば、ボディペイントの類を付けることは禁止らしい。
「もし洗ってみて落ちなければ、今回は申し訳ありませんが…」
いや、落ちないよ。
だって、ヘナだもん。知ってるでしょ、たまに髪の染料として使われるやつ。
一応洗うふりをしながら、隙を見て入館できないかどうか思いを巡らせていた。
でもそれは所詮無理な話だった
結局私は退館させられ、既にスパを楽しんでいた友人の名前が館内放送で呼ばれた。そしてその友人も一緒に退館する羽目になった(しかも友人の分の返金はなかった。)
恥ずかしかった。申し訳なさでいっぱいになった。
しかし、私の頭の中にあったのは羞恥心だけではなかった。いや、それよりも怒りや悲しみの比重の方が大きかったのかもしれない。なぜなら、あの時自分が身を置いている社会の不条理さを突きつけられたからだ。
そのスパには、「ボディーアート(タトゥー・ペイント・シール等)のある方」の入館はお断り、の規定が定められている。
刺青を施している人が暴力団員であるというイメージを植え付けてしまうということは私でも知っている。でも、ボディアートは関係ない。私の手のヘナのデザインが、暴力団のそれとは関係ないということぐらい一目瞭然。
だから好奇心でスタッフに聞いてみた。
「なんでボディアートをつけている人は入館できないんですか?」
彼女はこう答えた。
「上が定めた決まりですので…」
以上。
その根拠を聞き続ける私に対して、物凄く申し訳なさそうな表情を見せたそのスタッフは、どうやらもう何も言いたくはないらしい。
え?それだけ?
愕然とした。
あなた個人の考えはないの?馬鹿馬鹿しいこの規則を正当化できないのに、あなたは素直に従っているの?
「郷に入れば郷に従え」
このことわざを思い出せ、という人もいるかもしれない。
その場所の文化やルールを守ることはそこへ滞在する者として当たり前だ。
そして、このような結果に終わったのは事前に規則をチェックするといった対策を取らなかった私の自己責任だ、という人もいるかもしれない。
もちろんそれは正論だ。
しかしそれは、そのルールに論理的整合性が見られる限り。
なぜなら、ボディペイントを刺青と同等に扱うことは全く論理的ではないと私は思うからだ。
はっきり言う。どう見ても普通の女子高生(あるいは女子大生⁇笑)が幾何学模様の柄のペインティングをしていたとして、反社会勢力とのつながりを疑う人はいるだろうか?入館者がボディアートを身にまとっているという事実によって、そのスパの評判は落ちてしまうのだろうか?そして、ボディペイントをした人が入館したことによって実質的な被害にあう人がいるのだろうか?
そして私が何よりも悲しかったのは、このような規則が誰かのアイデンティティを傷つけてしまうということに気づいたからだ。
私たちにとって、ヘナは確かに「一種のおしゃれ」や「髪の染料」に過ぎないかもしれない。でもこのアートを脈々と受け継ぎ、自国の文化だと大切に守ってきた人たちがいる。もしヘナを身にまとった彼らが嬉々として入館しようとした時、納得する理由もなく入館を拒否されたら?
多分、彼らは傷つくだろう。
新参者には理解できない共通認識によって、自分のアイデンディティが否定されてしまことは誰にだって耐え難いことだろう。
私たちの暗黙の了解によって、無意識のうちに「多様性」というものは排除されているのかもしれない。自分自身が当事者になることによって、私は初めてその重要な事実を知ったのだ。
「多様性」を受け入れるための法整備や新しいルール作りを促進をすることは確かに大切なことかもしれない。でも今一番必要なのは、私たちが当たり前だと思っている事柄や既存のルールが知らないうちに誰かを排除していないか振り返ってみることなのではないだろうか。
あなたは、どう思いますか?
2017.08.16
11:31am
#1 馬鹿になった気がする。
馬鹿になった気がする。
帰国して以来、知識量や勉強面というより、根本的に馬鹿になった気がする。
思考を司る脳の一部分が、すっぽり抜け落ちてしまった気分だ。いや、せっかく膨らんだのに針を突き刺されたせいで、プシュっと萎んで不味くなった餅のような脳みそになってしまった気がすると言えばいいのか。
こう考えて見ると、イタリアにいた時は、いつも私の脳みそは活発に動いていたのかもしれない。
多分最大の原因は、母国語でない英語で喋っていたから。
確かに初めより英語のスピーキング能力は上がったけれど、やはり二年の終わりの時期になっても、英語で話す時に思っていることを頭の中で無意識に整理する必要がある。だから、無意識のうちに脳みそも刺激され、動いていたのだろう。
まぁ、私のイタリアでの生活は概してダラダラしたものであり、スケジュール立てられたものとは程遠かった。
けれど、学校からのスケジュールというものが一切ないあの場所では、常に何かを考えて動く必要があった。食堂に行くか行かないかから始まり、放課後何しようかとか、何時に友達の部屋に行こうか、とか、とても基本的なことだが、常に考えずにはいられなかった。
突如始まる、時には2時間以上にもわたる真面目(くさった)ディスカッションや、しょうもない哲学の問いかけに関する論理的なツッコミを必死に考えて発言しては論破されてヘコんでいたあの一瞬一瞬は、少なくとも脳トレにはなっていたようだ。
それが一転、どうだろう。
今や、テキトーな時期にいくつかの参考書と向き合い、まぁ読みたい本は読んで、たまにバイトに行く。会いたい人に会いたい時に会う。参加したいものに参加する。
おいしいご飯が半自動的に供給され、気が向けばドラマの続きを見る。学校のwifiが遅すぎたために、動画が数分に一回止まってはイライラしていたあの頃は、もう過去でしかない。
勿論、今の自分の生活はすごく快適で、ある意味有意義だし、満足している。
….大学が決まっていないことと、おいしい食べ物によって体重が増加し続けているという事実を除けば。
イタリアの生活は楽しかったけれど苦しかったことも本当に多かった。もう一度あの場所で学校生活を送り、IBをしたいとは全くもって思わない。
でも、これだけははっきりとしている。 苛立ちと発見の日々の中で、私は常に何かしら考えていた(考えざるをえなかった)し、だから脳みそがちゃんと動いている実感はあった。別にそれが凄いとかそうじゃなくて、ただ私の脳みそは活動していた。
けど今は、ちょっと活動停止の気がする。
一応ちゃんと物事を考えているんだけど、何だか脳みそが動いてない気がする。
とりあえず、頭の隅のどこかで、 これじゃヤバいなぁ、どんどん脳みそが干からびているんじゃないか、という恐れに悩まされている。
考えるって、刺激するって、大事だね。
2017/8/3
00:27am